#06 大人と子どもの境界線
大人と子どもの境界線ってどこにある?Rina&Ryomaの深掘りトーク
こんにちは!Podcast「そんより」のRina&Ryomaです。
今回は「大人と子どもの境界線」をテーマに、RinaとRyomaが日常の出来事から感じる「大人になる瞬間」や「子どもから大人への変化」について深掘りしました。
ドッジボールから見えた子どもの世界と大人の世界
Rinaが語ったのは親戚の子どもたちとドッジボールをしたエピソードです。そこには、大人が全力で挑み、子どもたちも一生懸命にプレイしたものの、敗れた6歳の少女が泣いてしまったという話がありました。
子どもは負けたことで真剣に悔しがり、感情をストレートに表現します。一方で大人は「負けても楽しむ」ことを大切にすることが多く、その感情の表し方が異なるとRyomaも共感しました。
勝ち負けの意味が変わる理由
Ryomaは、大人になっても勝ち負け自体は存在すると言います。ただ、その対象や受け止め方が子ども時代と違う。子ども時代のドッジボールはその瞬間が世界のすべてだったのに対し、大人になれば社会的地位や影響力などに勝ち負けがシフトしているからです。
さらに大人は、負けても泣くことはないものの、他の方法でその感情を処理する術を身に着けています。これは経験や社会的役割を通じて変化していくものではないかと二人は分析しました。
Ryomaが感じた「親」になることで生まれた責任感
Ryomaにとって大人だと感じる一番の出来事は、子どもが生まれてから数年後、子どもの保護者としての責任や、次の世代への意識を強く持ったことでした。
「自分が先に死ぬんだ」という実感が生まれ、自分より若い世代が次の時代を築いていく、その世代を支える立場に立つことを強く意識したと言います。子どもができて初めて「保護者」「監督者」という欄に名前を記入する機会が増え、自分が社会的責任を負っていることを感じたのです。
経済的自立もまた「大人」の要素
一方、Rinaが大人を意識したのは「親の扶養を抜ける瞬間」でした。自分でお金を稼ぎ、所得税や年金を払うことが自分自身の責任になった時、「自分は大人だな」と感じたのです。
初めて自分名義のクレジットカードを作った時の喜び、また自由に夜出かけられるようになった解放感も、大人を感じる大切な瞬間としてRinaは挙げています。
建前を言えることは本当に「大人」なのか?
後半の会話でRinaが気になったのは、「大人だね」という言葉が建前を言う人を褒める際に使われることでした。
Rinaにとっては、本音を言わずに相手の気分を良くするために嘘をつくのが本当に「大人」なのか、という疑問があります。確かに子どもは正直で、「美味しい」「まずい」をはっきり口にしますが、相手の気持ちを考え建前を伝える大人もいます。しかしその建前は結局「自分のため」ではないか、そうすると「大人」というよりも単なる「立ち回りの上手さ」ではないのかという問いかけが生まれました。
正直さと建前のバランスが難しい
Ryomaは、建前を繰り返すとその上に嘘が積み重なる可能性がある、と指摘します。関係性の深さによっては、正直な気持ちを適切な方法で伝えたほうが良い場合もあり、その匙加減こそが本当の「大人」の要素ではないかと二人は考えました。
大人になるということ、人生の多様性を認めるということ
話が進むにつれ、二人は同じ年齢であっても人は全く違う人生を送ることを認識します。学生時代は同じ環境にいても、大人になれば家庭環境、職業、病気や経験の違いから多様な人生があると気付きます。その多様性を認めていくことこそ、本当の「大人」の姿ではないかという視点も浮かび上がりました。
まとめ:「大人と子どもの境界線」は一つじゃない
結論として、RinaとRyomaが辿りついたのは、「大人と子どもの境界線」は明確に一つに定まらないということでした。
年齢、責任、経験、経済的自立、そして人間関係における立ち振る舞い。その全てが大人と子どもを分けるファクターであり、人それぞれが違う価値観で「大人」を定義しているのかもしれません。
皆さんは「大人」になったと感じる瞬間はいつですか?また「大人だな」と思う人はどんな人でしょうか?ぜひご自身の経験を振り返りつつ、一緒に考えてみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました!Podcast「そんより」もぜひ聴いてみてくださいね。
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